無題

世間は新型コロナウイルスの話でいっぱいで、エスエヌエスではあーでもないこーでもないとオッピニオンが溢れかえっているわけですが、とてもすばらしいですね、みんな勝手で。

寝る前にいらいらしたことがあったので、手短に喉に指突っ込んで吐瀉キメとくとちゃんと寝られるだろ感覚で書いておくことにします。

絆という言葉が本当に嫌いで、絆という言葉を使って人間関係を必要以上に美化している人たちも嫌いで。

そんな中で、ついにソーリダイジンが言い出したね。絆でコロナに立ち向かおうだってさ。

ほんとうに、言葉も、魂胆も、性根もくだらないなと思いつつ、くだらないの一言で済ますのはよくないと、くだらなさを言葉で詳細に規定しておきたいなと、思ったわけです。

絆は当人同士の間で「あ、あるな」って認識するもので、よそから「おまえとおまえ!絆つくれ!絆あれ!」でできるものじゃないじゃないか、と思います。

「みんな絆つくれ!絆あれ!」って言われて絆を作っちゃう人もいるけど、当然、そうじゃない人もいる。それをいやがる人もいる。どっちが多いか少ないか、それはわからないけど、そうする人とそうしない人は、絶対に分かれる。100-0は、ない。

ほら、もう絆、成立しない。成立しえない。

偉い人がみんなにやれ絆だ、ONE TEAMだ、と呼びかけた時点で、世界は分断されちゃうじゃないか。だめじゃん。

…いや、いいんだけどね、分断、別に。コロナの前からずっとそうだし。

ただ、言われるままに絆作っちゃう人たちよ、頼むから、そうじゃない人たちを「敵」と思わないでほしい。従えない奴はコテンパンにしていい、死ねって言っていい、なんて思わないでほしい。ただゆるやかにはぶいてもらえたら、それでいい。

そして、そういう人に限って無邪気に、言葉の意味を吟味もせず、耳障りがいいから、平等だとか多様性だとかダイバーシティだとか、言うんだ。中途半端に断行するんだ。
俺はそれが気に食わないですけど、別にいいです。分断されてるから。

誰もが自由にソーシャルでツイートをポストしちゃえる時代に、人と人との分断の境界線はクッキリハッキリしてしまうのは必然というか。境界線はぼんやりさせていた方が、ゆるゆるとした絆っぽいやつは生まれやすいよなあ、と思ったところで、確かそんなタイトルの本、あったな、って。

ゆるいつながり 協調性ではなく、共感性でつながる時代 (朝日新書)

インターネットのソーシャルの方がゆるいらしい。あれ?
俺いまずーっとそうでもなくないかって言ってた。あれ?